あらすじ
トラックでゴミ回収を生業とするポーランド人のクラスキーと、イタリア人のパドヴァン。2人は、仕事仲間以上の強い絆で結ばれていた。ある日2人は、立ち寄ったカフェバーで、男の子かと見間違うほどのショートカットでボーイッシュな女の子、ジョニーと出会う。彼女は、飲んだくれでパワハラ気質の主人に反発しながらも、ほかに行き場もなく働いていた。その夜、クラスキーとジョニーはダンスパーティで意気投合。
しかし、実はクラスキーはゲイだった。それでも惹かれ合う二人は身体を重ねるが…。
▼映画『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』予告編▼
作品解説
1969年にリリースされた、セルジュ・ゲンズブールの代表曲で、ジェーン・バーキンとのデュエットソング「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ(Je t'aime... moi non plus)」。
楽曲のリリース後、あまりにも官能的で大胆な内容に当時のローマ法王は激怒し非難。BBCやイタリア国営放送をはじめ、ヨーロッパのほとんどでは放送が禁止となった。それにも関わらず、イギリスでは外国語楽曲として初のシングル・チャート1位を記録。本国フランスや日本を含め、世界的に大ヒット。ラブソングの名曲として今なお愛され続けている。
日本では2015年の日本の連続テレビ小説『まれ』にて、本楽曲が第12週「官能カスタードクリーム」の重要なモチーフとして取り上げられました。
日本では2015年の日本の連続テレビ小説『まれ』にて、本楽曲が第12週「官能カスタードクリーム」の重要なモチーフとして取り上げられました。
映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ(Je t'aime moi non plus)』は同楽曲をモチーフに1975年のフランスで映画化。イギリスなどでは、性表現のきわどさから上映禁止。日本でもすぐには公開されず、フランス公開から8年後の1983年に性的なシーンは修正の上、英語版で公開された。
映画『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』より
悪環境の中の出会い
『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』は糞尿、ゴミ、ハエ、体臭、汚れたものがひしめき合う環境で、さらに性差別、暴力、抑圧と悪いところしかないという悪環境で、ボーイッシュな少女ジョニーとゲイのクラスキーが出会い、不安定な愛を築くというもの。ジョニーはゲイであるクラスキーに惚れ込み、アプローチするも「女には興味ない」とあしらわれる。それに対して「男の代わりにして」と身体の関係を結ぶという、なんとも不毛な愛の形。
私個人的な解釈ですが、ジョニーは田舎で抑圧された環境に嫌気がさしていたところに現れたクラスキーが救世主のような何かに感じたのかなと。
実際クラスキーが後ろ姿だけだと男だと勘違いするほど、ボーイッシュでやさぐれていたジョニーはクラスキーと逢瀬を重ねるほど、女性らしさが増していき、本来ジョニーがしたかったことをするようになっていきました。一種の解放だったのだと思います。
そんな女性らしさを増すジョニーを男代わりにしていたクラスキーが求めていたかと言うと違うんですけどね。
映画『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』より
2人が求めていたものの差異
個人的にはこのジョニーの変化は面白いものがあって、好きな男性のためにどんどん女性らしくなっていったり、想い人がゲイであるがために自ら「男の代わりに」と懇願したにも関わらず、根っこの部分で男に見られることの苦痛や女性として扱われたいという思いが見え隠れてしていました。こういった性表現(自分自身をどうやって表現するか)の変化やアイデンティティというものを、恋愛を通して変化……というより自覚に近いものをジョニーからは感じました。
映画『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』より
しかしクラスキーはゲイであったため、そんなジョニーを変化をあまり快く思っておらず、恐らく火遊び程度の感情しかなく、ボーイッシュだった頃のジョニーならつゆ知らず、そんなジョニーに対してどんどん気持ちが離れていくのも感じます。
そういった性表現やアイデンティティといった「自分はこう見られたい、こう扱われたい、こうでありたい」な部分と他者…特に好きな人から求められる部分が違うことは、とてもつらくもどかしいものだということを改めて感じさせた作品です。
映画『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』より
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