内容紹介
フランス北部、エーヌ県に住む少女・サシャ。出生時、彼女に割り当てられた性別は“男性”だったが、2歳を過ぎた頃から自分は女の子であると訴えてきた。
しかし、学校へスカートを穿いて通うことは認められず、バレエ教室では男の子の衣装を着せられる。男子からは「女っぽい」と言われ、女子からは「男のくせに」と疎外され、社会はサシャを他の子どもと同じように扱わない……。
しかし、学校へスカートを穿いて通うことは認められず、バレエ教室では男の子の衣装を着せられる。男子からは「女っぽい」と言われ、女子からは「男のくせに」と疎外され、社会はサシャを他の子どもと同じように扱わない……。
トランスジェンダーのアイデンティティは、肉体が成長する思春期ではなく幼少期で自覚されることについて取材を始めた監督は、サシャの母親カリーヌに出会った。
長年、彼女は自分たちを救ってくれる人を探し続けて疲弊していたが、ある小児精神科医との出会いによって、それまでの不安や罪悪感から解き放たれる。
そして、他の同じ年代の子どもと同様にサシャが送るべき幸せな子供時代を過ごせるよう、彼女の個性を受け入れさせるために学校や周囲へ働きかける。
まだ幼く自分の身を守る術を持たないサシャに対するカリーヌと家族の献身、言葉少なに訴えるサシャ本人の真っ直ぐな瞳と強い意志が観る者の心を震わせる。
長年、彼女は自分たちを救ってくれる人を探し続けて疲弊していたが、ある小児精神科医との出会いによって、それまでの不安や罪悪感から解き放たれる。
そして、他の同じ年代の子どもと同様にサシャが送るべき幸せな子供時代を過ごせるよう、彼女の個性を受け入れさせるために学校や周囲へ働きかける。
まだ幼く自分の身を守る術を持たないサシャに対するカリーヌと家族の献身、言葉少なに訴えるサシャ本人の真っ直ぐな瞳と強い意志が観る者の心を震わせる。
▼映画『リトル・ガール』予告編▼
作品説明
Little Gir(Petite Fille)は、セバスチャン・リフシッツが脚本・監督を務めた2020年のフランスのドキュメンタリー映画で]撮影と編集はポール・ギヨームが担当しました。
7歳のトランスジェンダーのサシャに焦点を当てていて、このドキュメンタリーはサシャとサシャの家族がフランスの地方で性別違和や性別移行を支援する際に直面する困難を追っています。
7歳のトランスジェンダーのサシャに焦点を当てていて、このドキュメンタリーはサシャとサシャの家族がフランスの地方で性別違和や性別移行を支援する際に直面する困難を追っています。
2020年にベルリン国際映画祭のパノラマクィア映画部門で上映され、イギリスでは、2021年にStoryvilleドキュメンタリー ストランドの下でBBC FourとBBC iPlayerで上映されました。
映画『リトルガール』より
⼦どもの幸せと⾃由を守ろうとする⺟親
『リトル・ガール』は性別違和を抱えている7歳の少女サシャを中心に描いていますが、インタビューなどの中心は彼女の母で、母親としての苦悩を語っています。
これまで性別違和という議題を中心に語ろうとすると、どうしても当事者の目線になりがちになっていたのですが、このドキュメンタリー映画は母親への心情を綴られているので、当事者の家族の目線を知れるきっかけになる作品だと感じました。
これまで性別違和という議題を中心に語ろうとすると、どうしても当事者の目線になりがちになっていたのですが、このドキュメンタリー映画は母親への心情を綴られているので、当事者の家族の目線を知れるきっかけになる作品だと感じました。
母親曰くサシャは2歳半か3歳の頃は「女の子になりたい」と言っていたそうだが、母親はそれに対して「なれない」と答えていた。これには母親本人は「間違った返答をした」と悔い、あの子を理解するまで本気で受け止めてきれず、サシャの苦悩を理解できなかったことを嘆いていました。
またサシャが女の子だと主張するのは母親のせいではと学校でも言われたこともあり、妊娠時に女の子を望んでいたことがお腹の中のサシャに影響でも与えたのではないかと怖くなり、サシャが性別違和を持って生まれたことを自分のせいだと思い込んでもいました。
サシャを傷つけてしまった罪悪感やちゃんと産んであげれらなかった後悔。奇異の目で見られることの恐怖や周囲の無理解による孤独を母親なりに感じていました。そんな中、専門家に相談し「親のせいではありません。子どもの望み通りにさせて構いません。」と肯定の言葉を与えられ、これがどれほど母親の心の重荷を解放したか計り知れません。
またサシャが女の子だと主張するのは母親のせいではと学校でも言われたこともあり、妊娠時に女の子を望んでいたことがお腹の中のサシャに影響でも与えたのではないかと怖くなり、サシャが性別違和を持って生まれたことを自分のせいだと思い込んでもいました。
サシャを傷つけてしまった罪悪感やちゃんと産んであげれらなかった後悔。奇異の目で見られることの恐怖や周囲の無理解による孤独を母親なりに感じていました。そんな中、専門家に相談し「親のせいではありません。子どもの望み通りにさせて構いません。」と肯定の言葉を与えられ、これがどれほど母親の心の重荷を解放したか計り知れません。
映画『リトルガール』より
サシャとその家族の在り方
語る母に対して父親含めサシャの兄弟たちは多くは語りません。それは他の家族がサシャを蔑ろにしているわけではなく、母親が一番サシャに寄り添い大人としてサシャを見てきたからであって、他の家族もサシャの苦悩を理解し、偏見まみれの世間に抗おうと立ち上がります。
個人的には父親がサシャの苦悩に気づいてやれなかったことを後悔していたり、「もし女性になりたいというのをやめたら?」という切実な疑問などをぶつけていて、それがどこか等身大に感じで良いと感じました。
サシャの母親が苦悩に苦悩を重ねて理解し受け入れたように、父親もここから理解していくんだなと言う感じで、さらにはそんな父親に対して「なんで分かってあげないの!?」と怒るわけでもなく「私もさんざん悩んだから悩んでいい」と声をかける母親は偉大だとも感じました。
映画『リトルガール』より
ひとりの当事者として
ここまで性別違和に……しかもサシャのような幼い子供のドキュメンタリー映画というのはかなり珍しいです。それ故に当事者として不安に感じることがいくつかあって、ひとつはサシャの性別違和の訴えです。サシャは幼い頃より性別違和を母親に訴えていましたが、そんなに強く訴えられる子のほうが個人的には珍しいと思っています。現に私自身は性別違和を強く感じるようになったは小学3年の頃でしたし、性別違和が強くなった中学時代は「これは悪いことだ」と気持ちに蓋をしていました。
また、サシャはピンクやふりふりといった、典型的な女児が好みそうなおもちゃや服装を好んでいましたが、これを見る人によっては「性別違和を持った子は生まれた時の性別と反対の性別のものを要求する」と思われるかもしれませんがそんなことはありません。
あくまでもこれは性別違和を持っているサシャのケースであって、性別違和の感じ方や訴え方は人それぞれであることを留意ししていただけると幸いです。
ただ監督のセバスチャン・リフシッツはインタビューで
「トランス・アイデンティティの問題というのは、体に変化が表れる思春期に直面するものだとされてきたからです。バンビの話を聞いて、トランスジェンダーの人は思春期のずっと前から問題に直面しているのだと驚かされました。トランス・アイデンティティというのは、思春期の性の問題とは切り離された問題だと気づいたのです。そして、トランスジェンダーについてもっと理解するには、アイデンティティの問題にぶち当たっている現代の子どもを取り上げなければならないと感じました。」
と語っており、思春期よりも前に性別違和に取り組まなければならいことを訴えているため、彼のこのドキュメンタリー映画によってそのことが伝わればいいなと感じました。
映画『リトルガール』より
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>これを見る人によっては「性別違和を持った子は生まれた時の性別と反対の性別のものを要求する」と思われるかもしれませんがそんなことはありません。
こういうのって「サシャちゃんははっきり違和があるからこそ、小さいうちに気が付いた。」って気がします。
逆に「おてんば少女で、男子たちと同じ格好で遊ぶのが普通だと思っている。」なトランス女児だったら、おそらく二次成長期まで性別違和はないでしょうし。